カップさんの日常

気のおもむくままに書いてみたいと思います

カップさんの片付けの歴史(4)

前回までのあらすじ↓

cupcupsan.hatenablog.com

cupcupsan.hatenablog.com

cupcupsan.hatenablog.com

 

 カップさんの次の戦場はロッカーとカバンです。お道具箱が人並とまではいかなくともだいぶマシになって来たと思いましたら、次に指摘されたのはロッカーでした。それは小学4年生のころだったのですが、その当時の先生が厳しくて厳しくて、怒られては泣きながらロッカーを片付けていたのを覚えています。思い返すとそれまではロッカーが汚いと指摘された記憶がないので、お道具箱の中身がロッカーに移っただけなのかもしれませんね。とにかくみんなの前で泣きながらロッカーを片付けました。

 

 さて、時は流れて中学生になります。このころになると自分で進歩を感じる出来事がありました。ごみを自分で判別できるようになったのです。ゴミを取っておかずに捨てることができるようになりました。それまでは今考えれば明らかにゴミだとわかるようなくしゃくしゃになった折り紙なんかも後生大事に取っておいては、母に怒られていました。中学生のあるとき、なんでこんなものとっておいていたのだろうとふと思う瞬間があり、その瞬間自分が成長したように感じました。

 

 しかし、これでめでたしめでたしとはいきません。次の戦場はカバンの中です。カバンの中は小学生の頃も、軍手を持ってくるのを忘れたとき、半年だか1年だか前に使って入れっぱなしにした軍手に救われ、忘れものをせずに済んだほどには何でも箱だったので、ずっと汚かったのですが、中学生になり圧倒的に荷物が増えたおかげでより問題として先生に指摘されるようになりました。カバンが重たいくらいで済めばいいのですが、なにせパンパンなものですから、入れ方を少しでも違えると荷物が入りきらなくなってしまいます。こちらの問題は高校になっても変わらず続きました。大学生になり、荷物は幾分減ってきましたが、カップさんの荷物は重たいといつも言われますし、滅多にありませんが、カバンの中を覗かれることがあればかなり恥ずかしいなと思うくらいには煩雑で、ゴミもたくさん入っています。

 

 そんなカップさんにもついに大きな進歩のときが……!?



つづく

カップさんの片付けの歴史(3)

前回までのあらすじ↓

cupcupsan.hatenablog.com

cupcupsan.hatenablog.com

 

時が流れ3つ目の学校に転校した後の小学3年生のころだと思います。なぜ手紙がぐしゃぐしゃになって出てくるのか研究を始めました。わたしにとって、不思議な現象だったのです。まずわたしがしたことは、慎重に手紙を中に入れることでした。きちんとお道具箱の中にシワがないようにまっすぐ入れてしまうようにしました。しかし実験は失敗、また奥から手紙がぐしゃぐしゃになって出てきてしまいます。なぜ奥から手紙が出てくるのだろうと、必死に考え続けたある日、カップさんは机の奥で手紙がぐしゃぐしゃになってしまう理由をようやく理解しました。世紀の大発見です。それからすぐに…とはいきませんでしたが、段々とわたしのお道具箱の中身に平穏が訪れるようになりました。

 

 さて次の戦場はどこでしょう……??



つづく

カップさんの診断までの経緯(2)

前回までのあらすじ↓

cupcupsan.hatenablog.com



 時は流れて、検査の存在を視界の隅で気にしながらも、高校を卒業し、受験に失敗し、一浪して大学に入りました。部活にも所属し、優しい方々に囲まれていました。授業に部活と忙しい日々を送り、部活が節目を迎えたころ、それは冬でしたが、調子がおかしくなってしまいました。普段貯めないはずのLINEの通知を貯めだし、体が段々と重くなっていきました。自分の身に何が起きているのかわからないまま、部活を2か月ほど無断で休んでしまいました。全く動けなくなり、ただただ布団で転がっているだけの日々でした。時がたち若干回復したころにはコロナが流行っており、部活でも集まれなくなっていました。

 

 久しぶりの復帰はzoomでの新歓活動についての会議でした。授業も大学に通うのではなく、zoomでの授業になりました。この状況に苦しんだ方がたくさんいたでしょうし、このようなことは口にするべきではないとは思いますが、わたしはこの状況に救われるようなかたちになりました。それは、その当時を振り返って、わたしには大学に通う気力はなかったからです。このままではいけないと思い、メンタルクリニックに行きました。今の自分の状態を話したところ、うつ病ではないとの判断でしたが、薬を処方されました。そのときに発達のことを何度か相談したいと思いましたが、こんな私がおこがましいと思われるのではないかという謎思考が働き結局できませんでした。今思えば、それで嫌な反応をされたら次から行かなければいいと考えられるのですが、なかなか難しいですね。そこで行く意味を感じられなくなって段々とクリニックへの足は遠のいていきました。

 

 この間、わたしは後につながる行動を起こしていました。大学のカウンセリングルームに行ったことと発達相談支援センターへの相談に踏み切ったことです。これらの行動が未来の自分を大いに助けることとなりました。

 

つづく

カップさんの片付けの歴史(2)

前回までのあらすじ↓

cupcupsan.hatenablog.com

 

 1年生の冬、ここでわたしは一度目の転校を経験するのですが、転校した先で危機がおとずれました。転校早々クーピーの点検が入ったのです。もちろんわたしのクーピーの中身は揃っているわけがありません。むしろスッカラカンで、3、4本くらいしか入ってなかったと記憶しています。どうしようかと冷や汗をかきながらドキドキしていると、先生がカップさんは転校したばかりだし揃っているだろうから見せなくていい、ということになりなんとなんと無事免れることに成功いたしました。大変ドラマ的な展開ですが、事実です。こうして、わたしは無事に初日からわたしの”だらしなさ”はばれずに終えることができたのでした。

 

 この学校では1年生の冬から3年生の冬まで過ごしました。お道具箱の中身はそのクラスで1、2位を争えるくらいには汚かったはずなので、おそらく怒られていたでしょうが、よく覚えておりません(笑)ただ、汚いといっても、幾分か1年生の頃よりは、マシになり、気づけば自らキレイにするようになっていました。しかし、なぜかすぐにまたきれいにしなければいけなくなるので、不思議で不思議で仕方ありませんでした。3年生になると、なぜか保護者への手紙が消え、出てきたと思ったらぐしゃぐしゃになって出てくるだけの程度になっていたと思います。

 

つづく

カップさんの診断までの経緯(1)

 実をいうとこれは高校時代までさかのぼります。自分の発達障害を疑いだしたのがちょうどそのころです。きっかけは多分ネットサーフィンだったと思います。どのサイトだったのか、なんて検索ワードだったのかは覚えていませんが、自分との共通点をたくさん見つけたのです。そして、わたしは持ち前の”行動力”で、親には内緒で児童相談所に行きました。面談をしていって、傾向があるかどうかをみる知能検査をするかどうかの話が出ましたが、そのためには、未成年だったので親の協力を仰ぐ必要がありました。

 まず、相談したのは父でした。父は私が持つ特性をさらに濃くしたような人物なので、話しやすかったのです。ただ、父はわたしの育児にさほど参加していなかったので、わたしの養育歴を十分に語ることができませんでした。次にわたしは母と話さなければなりませんでした。普通、父から母に話してもらうことを考えるかもしれませんが、両親は仲が悪かったのです。

 母には大変言いづらかったです。母からは昔から、常に部屋を片付けなさい、食器を下げなさいと叱られては、母を困らせていました。発達障害を持ち出すのはそれらができないことを”言い訳”にすることにはならないか、それをいいことに怠ける口実になってしまわないかと考えてなかなか言えませんでした。

 意を消して母に打ち明けた時の反応は端的に言うと、「あなたは当てはまらないと思うけど、検査をしたいのならばしたらいいと思う」といった具合の反応でした。母がわたしは当てはまらないと考えた理由は、当時わたしが学校の課外活動でリーダーを務めていたことでした。発達障害者が絶対にリーダーを務められないというわけでもないのですが、わたしも母も発達障害についての知識はさほどなかったので、仕方ないことだと思います。その反応をわたしはどう受け止めたらいいのかわかりませんでした。その当時、自分の考えを言語化することができませんでしたが、わたしは検査を受けてよいのだろうか、これは必要なことなのだろうか、もし違ったらわたしはその結果をどのように受け止めたらよいのだろうかと葛藤していた今ならと表現できます。

 結局わたしは検査を受けないことにし、日常の困りごとは工夫すればなんとかなると自分に言い聞かせました。

 

つづく

 

 

カップさんの片付けの歴史(1)

 わたしは片付けが大変苦手です。わたしの片付けの歴史はとても長く今も続いています。

 わたしが覚えている限りの”はじまり”は小学1年生の頃なのですが、母いわく”ずっと”だそうです(笑)今回はわたし目線での語りですので、小学1年生からの片付けの歴史について語りたいと思います。当時は大変コンプレックスだったのですが、話してみると笑ってもらえることが多いので、思いっきりネタに振って語ります。お楽しみください。



 小学生のころクラスに2~3人ほど担任の先生にお道具箱の中身を机の上に出されていた人がいませんでしたか?わたしはその中の1人でした。先生からはもちろんみんなの前で怒られたわけなのですが、なんとわたしはなぜ怒られているのかさっぱり理解していなかったのです。なんなら、怒られていることすらも理解していなかったかもしれません(笑)自分の机の上に出された乱雑にあふれかえっているお道具箱を見つめて、なにがダメなんだろう…と思っていました。かすかな記憶の中には、手紙のしまい方、おり方を教えられていた気がしますが、なぜそんなことをしなければならないのか理解できず、というかそもそも何をしているのかよくわからず、ぼーっと聞いていたのは覚えています。つまりは、わたしの片付けの歴史は、汚い状態を把握すること、そしてそれが良くないと認識することから始まったのでした。それが小学1年生です。

 

つづく

カップさんの診断までの経緯(3)

前回までのあらすじ

cupcupsan.hatenablog.com

cupcupsan.hatenablog.com

 

 発達相談支援センターに通い、日常の困りごとなどを聞かれるとともに、発達の検査ができ、医師に診立てをしてもらうことができることを教えてもらえました。その過程においてもやはり養育者からの聞き取りがあることから、決断までに時間がかかりました。数か月くらい悩んだ結果、再び母に話をしました。そうしたところ、やはり「あなたが検査したいのならば、したらいいと思う」との返答で、なんとなくモヤモヤしながらも検査を受ける決意を固めました。また、同時期に友人から知能検査を受けたことがあり、自分の苦手が分かって、自分のことが分かるきっかけになるということを言われたことに背中を押され、決意できたように思います。大学3年生になり、雲行きがだんだんと怪しくなっていました。(すでに大分怪しくなっていましたが…)より体調を非常に壊しやすくなったのです。そのような中で何か月か経ち、ようやく発達検査を受けることとなった。

 

 発達検査は総合的に楽しかったように思います。終わった後、今日は疲れたよね?と言われましたが、よく分からず、でも翌日に充電切れのように疲れ果てたのをよく覚えています笑その後、医者とも面談をし、診立てとしてASDADHDの傾向があると言われました。心境としてはホッとしたといったところが正直な感想でした。その同時期、生活がかなりぐらついていたように思います。自分でどうにかしようにもどうにもできず、レポートを書くと心臓が痛くなる始末だったので、思い切って病院に行くことを決意しました。病院に行き、知能検査の結果を渡すと、いくつかの心理テストを渡され、答えてくるように言われました。2回目くらいの診察で薬を試してみるかどうか聞かれ、是非試してみたいと答えたので、少量から開始することになりました。4回目くらいの診察で診断について聞いたところ、ASDADHDの傾向がみられるとの結果でした。ここまで、自分自身が発達障害ではないかと疑ってからもそうですが、診断を受けると決断してからもかなり長かったように思います。

 診断を受けたあと、ちょうど大学のカウンセリングで合理的配慮を受けることについて話していたので、その手続きを進め、以下の配慮を受けました。

 

・障害の事ことを知ってもらうこと

・レポートの期限延長

・耳栓の使用許可

・履修を組む手伝い

 

 これらを配慮してもらってから、かなり精神的に楽になったなと思います。レポートの期限延長は今のところ1,2回ほどしかしたことがありませんが、いざとなったら期限を延長してもらうカードを切れると思ったら、それだけで落ち着いて課題に取り組めるようになったなと思います。

 

 今はこうした配慮や学校、発達相談センターでの相談、処方される薬、自分自身の工夫等でなんとか”普通”に生活ができているかなと思います。細かな通院や薬、各所での相談等についてはまた触れる機会があれば、書いていきたいなと思います。

 長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございます。

 カップさんの診断までの経緯はここまで!

 

それではそれでは~